第1回「哲学論文読書会」 レジュメ(仮)
読書会について
期間:7/20~8/2
場所:#思想哲学
↑ 共同討議 皿 二 他者と自己より
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課題図書の概要
どのようなことばによって、こうした他者について、また他者との関係についてかたりだすことが可能でしょうか。この報告では、直接にはレヴィナスの思考に由来する、いくつかのことばを取りあげてみたいとおもいます。ひとつは「無限の渇望」、もうひとつは「記憶不能な過去」、最後に「それ自身の痕跡」です。(p. 18)
基本的には「無限の渇望」、「記憶不能な過去」、「それ自身の痕跡」というレヴィナス由来の3つの概念の解説
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キーワード・用語・概念
※ ()内の数字はキーワードが出てくるページ
※ 他の文献から参考になりそうな記述や自分の考えを書いてくださっても大丈夫です
(長くなりそうな場合は他のページに書いてリンクだけ貼った方が見やすいかも?)(要検討)
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「他者の他者性」(17, )
他者と私とのあいだの無限の隔たり
≒「絶対的な他者」(17, )
私からは到達しようもなく、私から完全に切断されているような他者
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「無関心の不可能性」(19, )
例えば、見知らぬ他者に対しても、私たちは「無関心を装う」という一種の「他者への応答」をしてしまっている(18-9)
エマニュエル・レヴィナスにおける限定的な意味では、「絶対的にことなっているもの同士が、にもかかわらず、文字通り「差異」のうちにとどまることができない」という含みがある(?) ─────────────────
見知らぬ他者たちすら、日常的には、私の現在・私の知の範囲に回収可能なかたち(=「飼い慣らされた」」存在)として出会われる
≒「類型化」(19)
≒「構成」(21, 23)
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他者が、私によっては到達不可能なもの、 つねに余剰をのこすもの、その意味で私にとって「無限」であること。つまり、私によっては取りつくすことができないものである、ということ ─────────────────
「無限の渇望」/「渇望」と「欲求」(21, )
「欲求」
欲求されるものは所有の対象となりうる
欲求は論理空間の内部で作動する(21)
「渇望」
渇望されるものは決して所有されることがない
渇望されるもの自体がむしろ渇望そのものを「無限に」かりたてる
過ぎ去ったものを捉えようとして、現在から、あるいは現在の論理空間から切断された未来に、否応なく関わる(21)
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「純粋観想」(22, )
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「記憶不能な過去」(23, )
他者は、私の現在から切断されたものであるので、「想起の対象」・「記憶可能なもの」とはならないこと(23)
「想起」は私の現在(現在の私?)において行われる(22)
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「それ自身の痕跡」(23, 24)
レヴィナスが「それ自身の痕跡」としての他者について語る時は、死者となった他者が念頭に置かれている(24)
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「隔時性」(24, )
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本文に関するメモ(仮)
table:p. 22
過去 未来
体験 「後悔」 「恐怖」・「祈り」
(可能性の)想像 「想起」 「予期」
「想起」・「予期」などは「現在」の私において行われる(「飼い慣らし」≒ 「類型化」≒「構成」も同様) 現在における「想起」・「予期」は「のんびりした」経験の場面であり、過去・未来を切実な重みにおいては捉えていないらしい
切実な過去・未来とは、現在における私の「構成」からは切り離されていて、それゆえ回収不可能であるのにもかかわらず、反復的に現在に迫ってくるものらしい
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参加者の意見・見解
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疑問点
p.21における「手持ちの論理空間」というのは、p.19の「類型」とほぼ同じ意味? もちろん「論理空間」の元ネタは『論考』であるが、本論文中の「手持ちの論理空間」と「類型」がほぼ同様の意味で用いられているか(差異があるか)?という疑問
本論文中で「論理空間」が出てくるのが、p. 21のみなのであまり重要ではないとは思われる
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このレジュメの内容への言及(修正希望など)
※ 左の(灰色?緑?)の縦棒(テロメア)を右クリック(PC)してリンクをコピぺすることで特定の行へのリンクみたいなものが一応作れないこともないです /icons/hr.icon
その他